[[==Life Goes On!!==]] blog ver.

odamichiのブログです

Feelin' Feelin'

事故にあったあと、数日して少し身体を起こせるようになってきて、病室での時間を持てあまさないようにと恋人が持ってきてくれた数冊の本と、家から持ってきてもらった懐かしいノベルスたちからはじまり、ここ一ヶ月で久しぶりに本を読み漁った。本は小さな頃に読み聞かせられた絵本にはじまり、学生の頃は身近にあるものだったし、よく読んでいた方だったように思う。ここ数年は仕事が忙しくなり読むペースはずいぶん落ちた。

読んできた本の種類はほとんどが小説とマンガだった。お話が好きだったのだ。そのうちに映画やドラマも見るようになったし、学生の頃にはそれなりに借りてきて見ていた。ひとりで映画館にも行ったし、シリーズものを借りてきて続けてみるなんていうこともした。没頭できる世界は好きだった。自分が涙もろくなる瞬間があることも知った。

登場人物になりきって見ているということはあまりなかったように思う。物語を作者が紡ぎ、そこに登場する人物たちの姿を見て感動している、といった方が正しい。感動するものは演出であったりもするし、人物たちの生き様であったりもするし、それはメディアの種類を問わないかもしれない。映画であろうがマンガであろうが小説であろうが、美しい光景に心奪われることだってあるし、心をもった誰かの感情の機微と意志を感じさせる表情一つに胸打たれる事だってあるし、長いお話の中で押し込められていた感情が発露するたった一言の台詞に堪えられなくなることだってある。僕はいつだってそういったものを見る者として、有り体に言うならば、感動していた。
同じように心を捉えて離さないものが音楽だ。本や物語と違って音楽は意識しなくても周りにあったものなので、いつから、とか、最初は、なんてものがよくわからない。テレビで見ていたヒーローものの歌は好きだった記憶があるし、両親が聞いていた音楽は何となく好きだったし、僕が生まれて育っていった頃はもうラジオはもちろんテレビも当たり前のように存在していたので、何が音楽かなんてのはよくわからないし、未だにそのあたりは曖昧なものだなぁと思う。

自分が音楽として、というか、“聴きたい”と思って聴き出したものとなると最初はきっとヒーローものの音楽が詰め込まれたカセットテープだったし、これは結構否定的な人も多いかと思うが、学校の音楽の時間に歌うのも嫌いじゃなかった。うちは父親が喫茶店を営んでいたのでうちに帰って店に行けば父親の趣味のジャズが流れていた。そんななかでCDをねだって買ってもらうきっかけになったのが、「東京ラブストーリー」だった。

小田和正の歌う“ラブ・ストーリーは突然に”はおじさんだかにいただいたのだけれど、それをすごく気に入って繰り返し何回も聴いた。商業的にパッケージングされた音楽、つまりはポップミュージックが好きになっていったのはそれからだった。

それから少しずつ色々な音楽と出会いだし、やがて生演奏で音楽を聴くこと、LIVEへ足を運ぶことの衝撃と心地よさに魅せられるようになった。通っていた大学の音楽サークルの充実さとそこにあった豊かな創造性にもすごく刺激を受けたし、また今まで知り得なかった音楽の世界をたくさんの人が教えてくれた。音楽は無限にも思えた。

ポップミュージック、ヒップホップ、ロック、パンク、クラシック、ジャズ、民族音楽、現代音楽、環境音楽、ノイズなど色々な形があることを知る中で、なんでこの音楽が好きなんだろうとか、どこが魅力なんだろうと考えたけれどよくわからなかった。曲の端々にああ、ここが好きなんだ、とか、こういう感じがいい、とかはあるんだけれど、共通点はあるといえば、ある。でも似ている感じのものだって少し違うところがよかったりするのだ。よくわからなかった。

でも、涙が出るほど揺さぶられる音楽にはなにかに似た感覚をおぼえた。それはなんだろうという不思議に、ああそうか、と思ったのはいつだったのだろう。映画やマンガや小説の、あの心が揺さぶられる感じ。頭の中のある場所がキュッと締め付けられるような、胸のどこかにぐっと迫るような、あれはなんだろう。共感、いや、共鳴といった方が近いのかもしれない。そう思うと音楽と同じなんじゃないかという考えがすごくしっくりくる気がした。

大学時代の後輩で音楽家であり芸人である友人がいるのだけれど、「伝わる」のは受取るほうに「受け取る」能力がないと伝わらないというようなことを以前言っていて、そのことを思い出した。ということは、だ。自分にレセプターがなければ音楽や映画やマンガや小説のもつ「なにか」は気付かれないのだ。そして自分にとっての「なにか」の共通点は何なのだろうか。

数年前に僕は北海道までRising Sun Rock Festivalを見に行ったことがある。その時に見た忘れられないステージの一つにNATSUMENというバンドの演奏があった。ギターを弾くAxSxEの姿は神がかったようにかっこよく、最後はギターじゃ追いつかないとでも言うかのようにマイクをつかんで絶叫していた。その時に思った。ああ、人が生きていてその命のエネルギーのようなものを音楽に変えて放出する、その熱量の高さに僕は打たれているのだと。
エネルギーにはもちろん色々な形があって、美しいメロディーであったり、圧倒的な轟音であったり、緻密なアンサンブルであったりするのだけれど、ステージでさまざまな形で放出されるエネルギーを浴びたときに、その熱量が強ければ強いほど胸を打つのだと、惹きつけられるのだと思うようになった。

そしてマンガや映画や小説も、胸を打つシーンは同じように感じてるのだと思い至った。秘めた想いを解き放つとき、秘密は秘密のままに押し黙ることを選択した瞬間、外向きもあれば内向きもある、さまざまな思いのエネルギーが強ければ強いほど、そこにある葛藤のような負荷が高ければ高いほど胸を打たれるのだと。涙するのだと。
それ以来、僕にとって心を揺さぶられるのは、エネルギーの強さのようなものだという考え方はなんとなくだけど僕の心に住み着いて離れない。そして感動や好きになることには理由などなく、ただただ心や体が反応するのだと、そう思う。

誰かが全身全霊をもって、なにかを伝えようとしている姿は、ただただ胸を打つ。
そういうものに出会うことを、日々求めている。
心が反応する、その理由は、わからなくていい。

ロックンロールと君の声

7月の31日のお昼に夏の強化合宿を終え、翌日からまた始まる忙しい日々を前に伸びすぎた髪を切りに行こうと考えた。いそいそと家へ帰り、シャワーを浴びてから身支度をすませ、お昼ごはんなんて後回しにして家を出た。その日返してしまわなければいけなかったCDを返してしまわなくてはいけなかったので、いつもの峠ではなくてレンタルショップを経由して一番早く行けるバイパスを通ることにした。合宿後だったけれどそんなに疲れが残っているわけでもなく気分もよかった。BGMはtoeの『The Future Is Now EP』。

前方をトラックが走っていて、その後ろをついて行く。気分は爽快だった。髪を切ったら恋人に会うつもりだった。約束なんてはっきりとはしていなかったけれど、会いたかったから、髪を切りに近くまで行くことだけを伝えていて、きっと彼女も会うつもりでいてくれると、なんとなくそう思っていた。

突然だった。トラックの右側に濃緑色の何かが見えた刹那ものすごい速さで迫ってきて、そこからはもう記憶がない。何かが鳴っている。目の前に見慣れないものが見えた。苦しい。ああ、この音はクラクションだ。目の前のものがなんだかわかった。エアバッグが破れたハンドルだ。動けない。手は動く。エアバッグを引っ張って押し込まれたクラクションの音を止める。煙が見える。煙?胸が痛い。扉が開けられて呼びかけられている。大丈夫ですか?返事が出来ない。どうにか声を出す、胸が痛い。煙が出てますね。そう言われてキーを回してエンジンを止める。男の人の後ろに車が見える。濃緑色のセダンだ。同じ向きを向いている。少し前方にトラックが止まっているのが見えた。セダンの助手席には女性がぐったりしている。運転席の男性が立ち上がってよろよろと歩いているのが見える。なんなんだよ。そればかりがぐるぐると頭の中を巡る。なんなんだよ、これ。胸が苦しくてとてもじゃないけど体が動かせない。手元に携帯電話が触れた。メールが入っている。ああ、そうだ、さっき忘れものをしたから仕事先に出てくる人に連絡していたんだ。これはたぶん…明日から仕事に行けない。そのことを伝えておかなくちゃ。電話をかける。事故に巻き込まれたから忘れものを預かって欲しいこととまたあとで連絡すると言うことを告げる。仕事のことに触れる余裕なんてなかった。ああ、予約した美容室もキャンセルしておかないと。いけなくなった旨をメールする。恋人には…ダメだ、今連絡したら仕事どころじゃ無くなるかもしれない。意識ははっきりしているけど何か会話した気はするけどあまりもう憶えていない。やがて救急車が来て、僕は運ばれていった。

胸骨・肋骨の骨折、シートベルト痕の残る擦過傷。幸いなことに擦過傷と足の打撲以外の外傷はなく、折れた骨も内臓に傷をつけたりはしていなかったらしい。胸水が少したまっているから経過を観察するとのことだった。HCUという部屋で点滴とモニターされながらの入院。後で聞いたことだが、弟が事故の現場を通ったらしい。車の壊れ方を見てそれはひどいものだと思ったら、家に帰って実の兄の事故現場と聞かされてまたビックリしたらしい。それはそうだろうと思う。運ばれた夕方、恋人からメールが来て、事情を伝えた。事故にあってしまったこと。HCUが家族以外は面会禁止だってこと。長く説明できるメールを打つエネルギーもなかった。

それから一ヶ月。3日目くらいに一般病棟へうつり、点滴が外れたら食事もとれるようになった。最初は自力で起き上がれないし、トイレも自由にいけずにつらかったけど、たくさんの人がお見舞いに来てくれたし、家族も毎日一度は来てくれる。誰かが来てくれるということがこんなにも嬉しいとは考えてもみなかった。恋人にいたっては、日々仕事も大変なのに、来るだけで大変なのに毎週来てくれて、退屈しないようにだったりとか少しでも気が紛れるようにと色々と考えてくれる。そのことがただただ嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。ありがとうなんて何回言っても言い足りない。

事故にあったときは、なんでだよって、やり場のない気持ちがわいてきたけれど、それがその時だけで済んだのは、胸や腕が痛むくらいで重篤な状態には至らなかった事への安堵感もあるし、家族や恋人やお見舞いに来てくれた方々、ネットワーク越しにでも励ましてくれた方々のおかげだなぁと、思う。相手の方も手術が無事に済んで回復には向かっているらしい。後続の車が巻き込まれることもなかった。骨が折れてしまって、仕事にも行けなくなったし、いくつか予定していたこともできなくなってしまって、起こってしまったこと自体は決して好ましいことではないけれど、それでもこうして生きていて、優しさとかあたたかさに触れられることの大切さを改めて感じて、悪いことばかりじゃないなぁと思う。だからそう、僕はしあわせものなんだ。きっとそうなんだ。

もしかしたら、とか、まさか、とか、起こってしまったらどんな言葉も通用しない。理由がどうであれ、原因が何であれ、運とか、タイミングとか、どんな理屈でコーティングしようとしても、起こってしまったことだけは覆らない。取り戻せない。代わりになるものなんてない。受け入れることしか出来ない。向き合って進むしかない。この程度で済んだからそんな風に割り切って言えるのかもしれないけれど、この程度で済んだことをありがたく受け止めて、現状を受け入れて、前へ進もう。生きていれば。例え君がこんな僕に愛想を尽かしてしまったとしたって、それでもこの命が消えるまでのすべてをめいっぱいに使っていこう。何度折れても、つないでいく。つなげなくなるまで。最後の日まで。この程度で済んだ自分を、もしかしたら無かったかもしれない今を大切にしていかなくちゃ。

なんだか大風呂敷を広げたみたいな感じになったけど、やりたいこと、やれること、いつできなくなるかわかんないんだから、楽しんで、苦しんで、めいっぱいにいく。これからはもっと。その前に、助けてもらった分と迷惑をかけた分を返せるように、はやいところ日常へ戻らなくちゃだ。まずはそこから。もう少し、もう少し。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
一ヶ月。ふと思い出すように聞いてみたチャットモンチーの『告白』を聞いていたら、なんとなくこの一ヶ月のことと、思ったことを書いてみようと思った。今だって不安はあるし、痛みだって残ってるけれど、それでもこれからどんどんよくなっていくと信じてる。世の中も色々と慌ただしいし、これからの日常だって正直どうなっていくか今はわからないから、苦しいこともたくさん待っていると思う。

それでも僕は大丈夫。大好きなロックンロールと、大好きな君の声があれば。

でもどってみる

はてなダイアリーひさびさ。というかブログひさびさ。
自分の小さな言葉を書き留める場所として、
こっそりと、ひっそりと、言葉を紡ごう。


半年の間でまた少し環境が変わって、いくつかの別れもあった。
そういうことに対して不感症にならないようにしたい。


最近、少し生活に変化があって、ドキドキしている。
嬉しくもあり、少し怖くもある。
これからどうなっていくかわからない。


それでも自分の心は確かで、その事実としっかり向き合っていたいと思う。
できるだけ楽しくありたいし、そう感じてもらえるような日々を送りたい。


今までの全ての経験と、今までとは違うこれからの全てを愛したい。
バカな僕はそんなことを思っている。

ゴールデンスランバー

伊坂幸太郎原作。2010年。

音楽を手がけたのが斉藤和義だったこともあり、本屋大賞受賞もありで、色々と話題になってた気がします。タイトルになっている『Golden Slumbers』はビートルズの歌で、作中で流れてくるときはビートルズなんじゃない?と思ってドキッとするほどせっちゃん(※注 斉藤和義の愛称)の歌声がはまってました。

派手じゃないんだけど、どこかその陰謀めいた雰囲気がスケール感を感じさせてどこかアメリカな雰囲気が漂います。でも舞台は仙台。だいたいいつも仙台ですよね、伊坂さん。いきなりな展開がやってきてバカバカしくて笑ってしまうところも。実際はなかなかにシリアスな状況だったりするんですが。伊坂幸太郎作品の映画化にはよく登場する濱田岳くんも登場、どうしてもつい、待ってました!な気分になってしまう。

物語の冒頭でテーマとなって繰り返し出てくる台詞があるんだけれど、いろいろエンターテイメントな設定とお話の(ややぶっ飛んだところもある)展開があっても、話の根幹はそこなんだなというのをじわりと感じさせてくれる。その部分が心にすごく残るというか沁みるというか。この一点があるのとないのでは大違い。もちろん話を転がしてくれるのもその一言だったりするわけで、そのあたりの話の組み方が説教臭くならずにするっと入ってくるあたりが上手いんじゃないかと。単純な僕はイチコロでした。

気軽な感じで見始めてもさらっと見れるし、大げさな押しつけ感もないし、すごくいい映画だと思います。エンディングに流れるあの歌もなんだかんだでやっぱり名曲です。あと、竹内結子さんキレイです。ほんと大好き。

ストレンジャー・ザン・パラダイス

Stranger Than Paradise” ジム・ジャームッシュ監督によるモノクロ映画。1984年。

画面の構図の作り方、モノクロで必要ない音楽など流さないところなどはすごく好み。総じてたいした内容があるわけではないので物語としては少し退屈ではあったけれど最後の方などは展開が少しバカらしくてそれもすごくよかった。

Wikipediaによれば “全編を通してモノクロで撮られた不条理・デッドパン(無表情)喜劇である” だそうだ。そう言われてみれば確かに悲劇ではなかったので納得。ビックリしたのが助演のリチャード・エドソンが元・ソニック・ユースだったという話。

どこか空しさみたいな乾いた雰囲気もそれはそれで悪くなかったなぁ。サングラスや帽子などのアイテムの使い方もなんか格好良かった。意味もなく車で遠くの知らない場所へ行って海でも眺めてみたくなったのは僕だけかもしれないが。

驚くべき学びの世界

イムズ8階の三菱地所アルティアムで、2012年2月18日から3月15日まで開催されている、『驚くべき学びの世界展 THE WONDER OF LEARNING』へ行ってきました。http://artium.jp http://twitter.com/artium_jp

アートの想像的な経験によって子どもの可能性を最大限に引き出す教育の試みに関する展示で、6歳くらいまでのこどもたちの持っている豊かな感受性が生み出す様々な作品や言葉に自分が普段思い込んでいることやしがらみに先入観がボロボロと剥がされていきました。

展示も絵・写真・言葉・映像を交えてあり、特に映像はこどもたちが自分の言葉や体で表す様とそれを見つめて向かい合うおとなの姿が素晴らしい。時間をたっぷり用意してじっくり見て欲しい。細やかに観察することは、先入観を持っていては決して生まれない。こどもたち自身の発想を邪魔しないように導いていくおとなの姿勢も素晴らしい。

共同でアート作品を作り上げていく事にフォーカスされた展示もいいですが、書くこと、特にこどもたちが文字を獲得していく過程を観察した「書くことの魅力」などは感嘆するばかり。おとなと同じルールを身につけていないだけで、ぼくたちが外せない常識の枷を持たない豊かさ。そう、学習していないから習熟してないだけなんですよ。こどもはもう最初から全部知ってるんじゃないかと思うくらいに。

非常に素晴らしかったので、時間がとれたらまた足を運びたいなぁと思います。ちなみに一度入場すれば期間中再入場できるようになってます。一部の映像は時間帯で内容が変わるようだったので全部見ようと思ったら何度か足を運ぶ方が良さそうでした。お近くの方は是非。

THE FUTURE TIMES

ASIAN KUNG-FU GENERATIONのギターボーカルGOTCHこと後藤正文さんが編集長をつとめる未来を考える新聞TheFutureTimesをようやく読み終わった。3月11日以降の僕らの向かう未来について考えさせられる。いや、正確に言うならば逃げようもなく考え続けてはいたのだけれど。

正直、僕が住んでいるのは被害に遭った地域とは遠い九州の地で、何か日常で変わったことがあったかと言えば、震災直後のショッキングな映像に打ちのめされたことやメディアやネットや情報とのつきあい方が変わってしまったことくらいで、生活自体が大きく変わるということはあまり感じていない。もちろん、関東からこちらへ来たという話は聞くし、もともと危ないよねって思っていた原発への忘れかけていた嫌悪感が一気に膨れあがったり、何より無条件で信じていたりなれ合いで済ませていた物事がそれではダメなんだと思うことがとても多くなってしまったという程度の変化はある。

たとえば被災地へ行って何かお手伝いする、などをしている人の話は聞くのだけれど(数年前にあった水害の時に被災地の方々が支援してくださっていたらしく、その恩返しで現地まで足を運ぶ方々の話は何度も聞いている)、僕自身にそういった行動を起こすための時間がないというのが実情、募金などしかやれていないのが実情だ。

 

見えないように目を逸らされ、見えていたはずなのに目を逸らしていた現実が、今や僕らの存亡を僕らの鼻先へとつきつけられてしまったんだな。この現実について考えることからは逃げられない。もちろん、思考停止で流れに流されてしまえば何も考えなくても済むかもしれない。などとは言えないほど恐ろしいことが起こってしまったのだ。そしてたくさんの人たちが生き方を変えざるをえなくなった。もちろん僕たちも。

 

今日も福島原発二号機の不安定な状況が伝えられた。マスメディアはどう反応してるんだろう。もはやテレビを信頼していない。僕が見てる場所が、その情報がマイノリティなのだろうか。利益のあるなしで動いてることだらけなんだろうか。僕は僕の現実を見据えることしかできない。本当にそう?なにかできることがあるのかもしれない。でも、それがなんなのか、僕にはまだわからないまま今日もツイッターを眺めながら日々を過ごしている。